歌

〜 音階にのせて 〜
朝の支度をし、部屋を出た。
もうこの家に住んで1年になる。
茉莉が卒業したら引っ越す予定で建てた、憧れの一軒家。事件前は、先に父方の祖父母が暮らしていた。
母方の祖父は既に亡くなり、祖母も、足に障害を抱えているため、施設生活を送っている。
茉莉と大輔の両親は、まだまだ元気な父方の祖父母に、このバリアフリーの家を建てたのだ。
ローンは30年。それは今、祖父母が受け持つことになってしまった。
それを父が知ったら、どんなに悲しむだろう。
楽をさせようと建てた家が、今、祖父母を苦しめているのだから。
茉莉は、その事を気にかけていた。弟の大輔もそうだ。
だから、祖父母には決して言わないが、志望校は自宅近くの公立高校で、唯一アルバイトを認めている高校だ。
運のいい事に、その公立高校は、茉莉の学力と釣り合っている。
そのため、教師にも、祖父母にも、もっと上へいけだとか、もう少し下げろだとか、言われなくて済む。
大輔も、その高校がいいような事を呟いていたので、流石姉弟、考えている事は同じのようだ。


リビングに入ると、祖父は新聞を読んでいた。
その隣には、ミニチュアダックスフントが寄り添うように寝ている。
一年前、事件の直後で気分が沈んでいた2人へ、祖父母が贈ったプレゼントだ。
名前はユウ。もうすぐ1歳のオス。
ユウが来てから、少しずつ茉莉と大輔は元気を取り戻した。
今では、決して欠けてはならない大切な家族だ。

キッチンでは、祖母が朝食の準備をしていた。
「おばあちゃん、朝ご飯ぐらいあたしやるよ」
そう気を使うと、祖母は微笑みながら
「受験生なんだから、気にしなくていいのよ。今は勉強しなさい」
「まだ1学期だし、朝ご飯の準備ぐらい平気」
そう言って茉莉は台所へ向かう。
「分かった。じゃあそうね…ご飯の手伝いの前に、大輔起こしてきて頂戴」
どうしても朝食の準備は自分がやりたいのか、祖母は茉莉に台所仕事にさせようとしない。
それが少し気に食わなくて、口を尖らせた。
「…分かった。でも晩御飯はやる」
「はいはい、じゃぁ晩御飯は一緒にやろうね」
これが三宅家、朝の日常である。

大輔を起こして(既に起きていた。出来のいい弟だ)、リビングに戻る。
祖母は早くも大体の調理を終えていた。
食器を並べるのは茉莉がやった。そうして家族4人での朝食。
父方の祖父母はまだ若い為、料理も若者好みなものが多い。
だから、昔と変わらない生活を送ることができた。

「あ、時間だ。そろそろ行くね」
茉莉はご飯茶碗に入っていた2口分ほどのご飯をかきこみ、制服に着替えるべくダイニングを出る。
出る直前、祖母が声をかける。
「あらあら。本当に今の受験生は大変ねぇ。朝から勉強なんて」
茉莉はクスッと笑って、
「ただ友達と約束しただけだよ。テスト近いし」
そう返すと、祖母はがんばりなさい、と微笑んだ。
茉莉はそれを笑顔で返す。

クローゼットにかけられた制服。ボタンが剥げている。3年間使い込んだ為だ。
大きめのサイズで買ったが、今では少し小さくなっている。

着替えの早さだけは自慢できる茉莉。
1分もかからないスピードで着替える。
クローゼットに取り付けられている鏡で全身を確認して
「よし」

昨日と中身を変えていない鞄を手に取り、部屋を出る。
出発の挨拶をするために、もう一度ダイニングへ。
昔は言わなかった、いってきます。今は言わないと怒られる。
祖父は時々怒ってくれる。怒られているときはいらつくが、今考えると、怒ってくれるのは嬉しい。
だから祖父が好きだ。

ダイニングのドアを引く。中に入って、いってきます。
これがいつもの習慣である。

祖父はよくできました、とでも言うように微笑み、いってらっしゃい。
祖母も祖父と同じような動作をする。
無愛想な弟、大輔も、いってらっしゃい。

茉莉は満足気に、もう一度。
そして玄関へ。
学校指定の靴を履き、もう一度。
合計3回。1回で十分なのだが、茉莉は3回言わないと気がすまない。
まるで、今まで言わなかった分を吐き出すように。

玄関を開けると外の空気が肺を駆け巡る。
風が心地よく肌の上を踊る。初夏のすがすがしい朝。
もうすぐ日本特有のムシムシとした夏が来ると思うと気が重い。

「茉莉ーっ!いこーよー」
アルトの声が、心地よく鼓膜を揺さぶる。彼女の声は好きだ。
「待って柚実。今行く」
柚実とは毎朝一緒に登校する。
家が近いために、相手側の玄関から自分側の玄関での会話が可能なのだ。
柚実の玄関の方向に学校はあるので、必然的に動くのは茉莉だ。
その所為かわは分からないが、茉莉の方が体重が軽かったりする。

2人は学校へ急ぐ。