歌

〜 音階にのせて 〜
物の創造には、長い時間が必要だ。
しかし、壊すのはものの数秒で、容易く破壊できる。

たとえば料理。
インスタント食品や、レトルト食品、無洗米等を使わずに料理をすれば、少なくとも1時間はかかるだろう。
米を炊くだけでも、それなりの時間を要する。
しかし、食べるのはどうだろう。
ダイエットの為と、1時間程かけて食事を行う人もいるが、普通の学生や社会人は、そんな事を毎回行う人は、まずいない。
大抵、食事は15分前後で終えることができるのではないだろうか。
早い人の場合、5分ほどで食べ終えてしまう。
食べることと破壊は、決してイコールの関係ではないが、その過程は似ているのではないだろうか。


以上の事は、人間にも言える事だ。
今、自分が存在するためにかかった時間は、一体どれほどか。
自分のルーツは、宇宙の誕生まで遡る。
では、宇宙が誕生したのは、いつなのか。
それは、未だはっきりと結論は出ていない。
しかし、膨大な年月を経て、今ここに自分が存在しているのは分かるだろう。

そんな、長い年月をかけ形成された人間を殺すのは、実に簡単。
原爆のような兵器、ナイフや刀、毒……。
それだけではない。たった指数本でも殺せてしまう。首の骨を亜脱臼させ、呼吸困難に陥れてしまえばいい。
また、暗示で人を殺す、ということも、どうやら不可能ではないらしい。
指数本、暗示。子供でも実行可能な、生命の破壊。生命の破壊は、実に簡単だ。
だから、1日に1人以上は、他殺によって死んでいく。



今日も、また1人、他殺によってこの世を去った。
名は、三宅洋輔(ミヤケ ヨウスケ)といい、妻と2人の子供と暮らす、ごく普通の会社員だ。
彼は、たった今、殺された。
凶器は、台所にあった包丁。
殺害方法は実にシンプル。包丁で心臓をひと突き。
殺害現場は自宅の和室。目の前には、最愛の娘と息子。
殺人犯は、自身の妻、莉子(リコ)だった。

目の前で、いとも簡単に死んだ父。
それを見ていた大輔(ダイスケ)は、目を見開き、固まったまま。
血が、どんどんあふれてくる。
それに比例し、大輔の目からこぼれる涙。
「父…さ、ん……と、うさ、ん…!」

一方、大輔の姉、茉莉(マリ)は、一切表情を変えなかった。
父親を憎んでいたわけではない。
最近、思春期特有の反抗期で、父に冷たく当たったが、大好きな自慢の父だった。
人の死だって初めての体験だ。葬式だって、未だ経験していない。
母親が、目の前で包丁を振るっているのを見て、恐怖の感情も沸いていた。
茉莉と大輔の違いは1つ。

―――あぁ、私も殺してくれたらいいのに。

彼女は別段、今の暮らしに満足していないわけではない。
かといって、いじめや虐待といった暴力を受けた事もない。
姉弟関係も、それなりにうまくいっている。
友人との関係も、良好とは言えないが、決して不満足ではない。
それでは何故。
理由は、彼女自身でさえはっきりとは分からない。
ただなんとなく、自分の思い描く自分像と、実際の自分が少し違った。それが彼女の死を志願する理由である。
14歳になり、ふと歩んできた道を振り返ったとき、思い描いた道を外れて歩んできたことに気づいた。
これから修正していけばいいのだが、修正の方法がわからない。
きっと自分は、このままぐだぐだと、自分の理想から離れて進んでいくんだろうと思うと、一寸怖くなった。

人生は一種のゲームだ。
いかに自分の理想に近づけるか、いかに満足の行く結末へ進むか。
失敗したらリセット。リセットして、ニューゲームをスタートすればいい。
そんなことが不可能だと分かってはいる。でも頭の端っこで、根拠のない確信が、生まれ変わりは可能だ、と叫ぶ。
実際、生まれ変わりがないなんてことも、断定はできないので、生まれ変わりが可能である可能性も否定はできないが。

しかし、死ぬのはやはり怖い。
人間が誕生してから今に至るまで、死に対する恐怖を覚えない人間はいないだろう。
自殺者だって、頭の片隅で、怖いと思っていたはずだ。ただ、それ以上に覚悟が大きかっただけであって。
この世に生を受けた以上、遺伝子に数億年前から刻まれた、死への恐怖からは逃れられない。
彼女は未だ、この恐怖に打ち勝つほどの覚悟ができていない。
だからいままで、だらだらと味気ない日常を送ってきた。何の変化も起こさずに。

自分のそういった性格は嫌いだ。
変わりたいだの、死にたいだの言っているわりに、何一つ実行した事はない。
おそらく自分は臆病なのだ。最近はそう思うようになって来た。
死への恐怖、変化への恐怖。何らかのアクションを行う事に怯え、結局今の生活を送る。
そんな自分の性分が、大嫌いだった。


その頃、殺人犯の莉子は、最愛の娘が殺してくれ思っていると知っている筈もなく。未だ凶器を握り締めていた。
莉子の脳内に浮かぶ、クエスチョンマーク。

―――あれ、何で殺したんだっけ。

特に、それらしい黒い感情が沸いた記憶はなかった。殺した理由が見当たらない。
冷静に状況を理解してみると、怖くなった。
多分、自分は殺そうなんて思っては居なかった筈だ。
少し喧嘩をして、子供達の前で喧嘩はしたくなくて和室へ移動した。
喧嘩がエスカレートして、夫に頭に来る事を言われて。
それから…いつもと違う、と子供達が止めようと、和室にやってきた。
でも、夫が言った事に対しての怒りは収まらず、台所にあった包丁を手にして――― それはきっと、脅しか何かのつもりだったに違いない。

彼女は約40年生きているが、知らなかった。
命というものの驚くほどの脆さを、壊れやすさを。
こんなに簡単に、死ぬなんて。
「あああああああぁぁぁぁあぁアアあぁ―――」

母は、自らの夫の血で染まった畳に、座り込んだ。
かすれた声で、ごめんなさい、と謝罪の言葉を述べ続けながら。
しかし、それはもう届かない。

後に、母親の叫びを聞きつけた近所の人々が、何事かと駆けつけた。
母の身柄は警察へ。
犯行を認めた母は、現在、刑務所で暮らしている。

悪夢のような事件から1年、姉弟は、父方の祖父母の家で暮らしている。
今までの生活とがらりと変わった生活になったが、変わらないことが1つ。

―――あのとき、殺してくれればよかったのに。